?> 最終更新日:2019年2月 5日 作成日:2019年2月 5日 | コメント(0)
新吉原花園池(弁天池)跡 吉原弁財天(東京都台東区千束)
東京都台東区千束3丁目にある新吉原花園池(弁天池)跡は、入谷駅徒歩11分、三ノ輪駅徒歩13分の場所にあります。
新吉原花園池(弁天池)跡には、弁天池や吉原弁財天、観音像、花吉原名残碑などがあります。
近くには吉原神社もあるので、観光時には吉原神社と新吉原花園池(弁天池)跡をセットでまわる人が多そうです。
中に入ると通路はこんな感じです。
説明文にはこのように記載されてます。
新吉原花園池(弁天池)跡
台東区千束3丁目22番
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移された。
以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死するという悲劇が起こった。弁天桐付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
平成10年3月 台東区教育委員会
観音像
関東大震災の供養として造立した観音像です。
定期的に碑が追加されてます。
花吉原名残碑
説明文にはこのように記載されてます。
花吉原名残碑
台東区千束3丁目22番 吉原弁財天
吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊廊で、元和3年(1617)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。
吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦3年(1657)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され、同年8月浅草千束村(現、台東区千束)に移転した。
これを「新吉原」と呼び移転前の遊廓を「元吉原」という。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和33年「売春防止法」の成立によって廃止された。
その名残を記す当碑は、昭和35年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
昭和41年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などの町名が残っていた。
平成17年3月 台東区教育委員会
吉原弁財天
吉原弁財天は一番奥にあります。
ここには池があり、魚も泳いでます。
吉原弁財天の雰囲気は、全体的に装飾も豪華さを演出されており吉原らしさ感じます。
その他の写真
新吉原花園池(弁天池)跡 吉原弁財天の情報
住所 | 東京都台東区千束3-22 |
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