最終更新日:2016年3月21日 作成日:2016年3月21日 | コメント(0)

民主委員の父 林市蔵銅像 「民生委員制度創設七十周年記念」碑 熊本城に行く途中にある行幸橋の下(熊本県熊本市中央区)

熊本城に行く途中にある行幸橋の下に加藤清正公銅像があり、その奥に民主委員の父 林市蔵銅像 「民生委員制度創設七十周年記念」碑があります。
林市蔵氏と聞くと大阪の淀屋橋にも・・・・って思い説明文を見てみると熊本県出身なんだと納得しました。

民主委員の父 林市蔵

慶応3年(1867)11月28日横手町に生れる。
5才で父を失い母の手一つで育ち「林家の雑巾(ぞうきん)」といわれたほどの貧しい暮しの中で春日小学校を経て済々黌熊中五高 東大法科に学び明治29年法学士となる。
北海道拓殖官に就職したが母を失い2年間も喪に服した。
その後内務省に移り山口 広島 新潟の各部長を経て三重県知事となる。
ついで東洋拓殖株式会社理事として在朝鮮8年 再び山口県知事に転出。
その後 大阪府知事となる第一次欧州大戦後のインフレ時代にあい 社会福祉の急なるを悟り 方面委員制度の創設に力を注ぎ現在の民生委員の父と仰がれるに至った。
昭和27年2月21日没84才
大阪淀屋橋畔にも銅像が建てられている

民生委員制度創設七十周年記念

碑文
「深則新」とは、民生委員制度の生みの親である林市蔵先生より与えられた活動教訓である、即ちこの言葉は、一つの問題を深く掘り下げそこに困難な壁があれば新しい勇気をもって工夫と努力を重ね、粘り強く切り拓いてゆく活動こそ委員の体得できる最大な喜悦であるという意であり、先生の遺志を継ぐ民生委員は制度創設七十周年を迎えるに当り先生がこの制度の傾注された真精神に思いを致し其の使命の完遂に決意を新にしこの記念碑を建立するものである。

林市蔵

林市蔵氏の情報をWikipediaより整理しました。

1867年12月23日 熊本藩士・林慎蔵の長男として生まれる。
1896年7月 中学済々黌、第五高等学校を経て帝国大学法科大学政治学科を卒業
拓殖務省に入り拓殖務属となる。
1897年7月 拓殖務省の廃止に伴い内務省に移り内務属として北海道局に配属。
1898年12月 文官高等試験行政科試験に合格。
1899年5月 警察監獄学校教授に就任。以後、兼内務省参事官、山口県書記官、同県第一部長、広島県事務官・第一部長兼第三部長、新潟県内務部長などを歴任。
1908年7月 三重県知事に就任。同年12月、東洋拓殖株式会社理事に転じ、1916年11月まで在任。
1917年1月 山口県知事となり、同年12月、大阪府知事に異動した。
1918年 現在の民生委員の前身である方面委員制度を、知事顧問(大阪府嘱託)小河滋次郎と共に考案して創設し、府に救済課を設置した。
1920年2月3日 大阪府知事を依願免本官となり退官。以後、日本信託銀行頭取、堂島米穀取引所理事長などを務めた。
1952年2月17日 84才 死去

林市蔵氏に関する書籍

民主委員の父 林市蔵銅像 「民生委員制度創設七十周年記念」碑の場所

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