?> 最終更新日:2014年12月27日 作成日:2008年4月12日 | コメント(0)
国宝 浄土寺(兵庫県小野市)
兵庫県小野市にある、浄土寺に行ってきました。
国宝の浄土堂(阿弥陀堂)がある場所です。
国宝 浄土寺以外の兵庫県の国宝のページはこちら。
浄土寺に到着!
国宝 浄土堂(阿弥陀堂)
中も見ることができるのですが、有料だったために断念。
看板に書いてある説明文を抜粋します。
国宝指定 昭和27年3月29日
旧法指定 明治 年3月29日(明治何年かが文字が消えてわからなかった)
浄土寺は、俊乗房重源により東大寺領大部之荘(小野市の中心部で加古川東岸地帯)内に建てられた。この堂は浄土堂という。建久年間(1190年代)の建立で、中国から伝来の「天竺様」という建築技法を用いている。天井を張らない化粧屋根裏、太い円柱に挿し込まれた肘木、それにかかる紅梁、鼻隠板を打った軒などにその特徴がうかがえる。東大寺南大門とともに「天竺様」と伝える建物で、お堂としてはわが国で唯一のものである。
阿弥陀如来及び両脇侍立像
国宝指定 昭和39年5月26日
旧法指定 明治34年8月2日
浄土堂の本尊で、観音・勢至菩薩を両脇侍として立つ、丈六の巨大な木像である。
三尊とも名仏師・快慶の作で、堂背面の蔀戸(しとみど)から差し込む夕日を背景に西方浄土から雲に乗り、早来迎される阿弥陀如来を目の前に表現しようとしている。
芭蕉句碑
芭蕉句碑があります。
「すずしさは 飛騨の匠の 指図哉」と書かれています。
鐘楼堂
県指定重要文化財です。
看板に書いてある説明文を抜粋します。
県指定文化財 浄土時鐘楼
指定年月日 昭和47年3月24日
所有者・管理者 浄土寺
鐘楼の歴史は、あまり明らかではない。今の建物は、寛永9年(1632)加東郡河合郷新部村粟津七右衛門が建立したものである。このことは、観喜院に所蔵される粟津七右衛門位碑厨子扉裏の誌文によって知られる。
袴腰付鐘楼で、各部がつりあいよく整っており、和様を基調としながら部分的に唐様を混合した様式をもっている。近年、一部に破損が生じたため修理が施されたが、建築各部の手法には、建立当初の様式手法が看取される。
この種の建築は、江戸時代初期における数少ない造例として貴重である。
平成元年10月 兵庫県教育委員会
八幡神社
看板に書いてある八幡神社の説明文を抜粋します。
八幡神社本殿
重要文化財指定 昭和27年3月29日
旧法指定 大正2年4月14日
八幡神社は浄土寺伽籃の中央正面に位置している。これは重源が八幡信仰を重視したためと考えられる。本殿は室町時代中期の代表的な桧皮茸 三間社流造である。手狭の絵様彫刻や蟇股内の花鳥や透彫などにその時代の特徴をよく表している。
八幡神社拝殿
重要文化財指定 昭和27年3月29日
旧法指定 明治34年3月27日
「浄土寺縁起」によれば八幡神社は嘉禎元年(1235)に建てられており、現在の拝殿はその遺構と思われる。幾多の改変ののち桁行七間、梁間三間、寄棟造の割拝殿となっている。ゆるやかな屋根の勾配繊細な繁重木木鼻、蟇股などの意匠から室町時代に多い和、唐、天竺様の折衷形式の原形ともいえる
不動堂
浄土寺東山四国八十八ヵ所巡り
浄土寺の中で四国八十八ヵ所巡りを体験できるようです。
順路が記載されています。
途中途中は順路はどこだろうって悩みますが、適当に進めばいけます。
一回だけ完璧に間違えて畑にでてしまいました。。。
中は森みたいに木だらけになります。
ブレアウィッチプロジェクトが思い出されます。
看板に書いてある浄土寺東山四国八十八ヵ所巡りの説明文を抜粋します。
この四国八十八ヵ所は、江戸時代後期(文化・文政年間)につくられたものです。
当時、四国八十八ヵ所への巡礼は大変盛んであり、その例は各地にみられますが、ここ浄土寺東山につくられたものは、八十八体の本尊石祠の脇に弘法大師がまつられ、また、各石祠には大部荘・垂井荘を中心とした小野市内の近世村および三木市、加東郡からの施主・願主の名前が刻まれています。
当時の人たちは、四国遍路へのあこがれをもってこの八十八ヵ所をつくり参ったのでしょうか。
このコースは一周約800メートル、30分程度のハイキングコースです、東山から眺められる国宝浄土寺、またひまわりの丘公園などとご一緒に散策されてはいかがでしょうか。
私はセカセカ歩いたので一周20分くらいでいけました。
距離もちょうどよくのんびり歩けました。
本堂(薬師堂)
看板に書いてある説明文を抜粋します。
浄土寺薬師堂
重要文化財指定 昭和27年3月29日
旧法指定 明治34年3月27日
建久8年(297)に上棟されたと伝えられているが明応7年(1498)に焼失し永正14年(1517)に再建されている。随所に天竺様が用いられているもののところどころに和様唐様がみられ、和・唐・天竺様の折衷形式といえる。近世においては主格的建築として扱われ本堂とよばれていた「浄土寺縁起」によれば荒廃したままとなっていた廣渡寺(浄土寺西方2kmに位置する国史跡広渡廃寺跡)の本尊であった薬師如来坐像を薬師堂に移し本尊として安置したと記されておりその関係が注目される
経蔵
開山堂
看板に書いてある説明文を抜粋します。
浄土寺開山堂
建重要文化財指定昭和47年3月24日
浄土寺の開基重源の坐禅を安置する堂である
全面を吹き放ち庇とし隅柱の上に舟肘木をのせた簡素な建物である薬師寺と共に焼失し永正17年(1517)に再建されている
石像
場所
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